小説『獣と少女』:「Midnight Fragments」(ミッドナイトフラグメンツ)特設サイト

ノベライズ

獣と少女

作:金椎 響 / 原案:想達

 三日月が薄雲を纏っていた。

 雲の間から漏れる微かな月光が、山がちな地形をおぼろげに照らし出す。

 一寸先も覚束ない森のなかを、鋭い風が駆け抜けた。

 ときおり風切り音を轟かせながら、その風は木々の間を舐めるようにして走る。

 その音のなかに荒い呼吸が混じっていなければ、誰もがそれを風の音色だと勘違いしただろう。

 薄闇に溶けた身体は低い姿勢を保ちながら、器用に前後の足を繰り出す。一定のリズムを刻む足音が森のなかへ木霊する。

 ところどころ腐葉土の混じった地面に大きな足跡が刻み込まれていく。その歩幅はどんな動物のものよりも広い。

 その影は深い森林を抜け、岩肌が目立った斜面に飛び出した。

 道なき道を進む、過酷な走りになった。高低差の激しく厳しい地形こそが、この世界の本来の姿だ。

 岩肌は山々を掠る薄雲でしっとりと濡れていた。滑りやすかったが、ごつごつした岩の出っ張りに爪を引っ掛けて影は軽やかに斜面を登る。

 

 月が雲を脱いだ。その月明かりに照らされて、影の姿が明らかになる。

 それは、一匹の狼だった。

 大きく裂けた口元には白い吐息がまとわりつく。それは白い舌を左右に振っているようにも見える。

 細く迫り出した頂上に到達すると、狼は腹の底から大きく息を吐き出した。狼の遠吠えが、山々の間を轟き抜ける。

 その声に対する応えはない。

 ただ己の声が黒い世界に反響するばかりだった。

 

 

 山の麓に住む人々にとって、狼の存在は畏怖の対象だった。

 最高速を長い間維持できる驚異的な脚力、速度さえ落とせば一晩中獲物を追い回す持久力を備えた身体能力は他の動物にはない優れた点だ。

 何より、闇夜の世界では月が沈まぬとはいえ四六時中薄暗い。その優れた聴覚と嗅覚は人間から恐れられていた。

 もしも、この狼にとって惜しまれる点があるとすれば、頭数だった。

 囮と支援役の狼がいれば、狩りはもっと簡単だっただろう。見張りもないなか、眠ることもない。何日間も食べられないことが多い故、一度に大量の肉を食べる必要がある。なのに、誰も狼の背中を守ってはくれない。

 

 彼は、孤独だった。

 その寂しさを紛らわせてくれるものは、頭上で静かに輝く月だけだった。

 狼は黒い風になる。

 四肢を大地に突っ張っているのに、その動きは氷上を滑る様ななめらかさだった。

 

 ひたすら斜面を駆け抜けていく。その走りは止まることを知らない。健脚を活かした大きな跳躍で、易々と岩の裂け目を飛び越えた。

 いつしか岩場から森へ変わる。森は魑魅魍魎が跋扈する、世界という名の混沌だ。人もいれば、獣の毛を纏う獣人もいる。もちろん、狼のような獰猛な種族も数多く存在する。

 自分の縄張りを狼は注意深く見回った。

 精神の糸がぴんと張り詰めているのが、自分でもわかる。警戒心を隠そうとせず、むしろ周囲に向かって放っていた。

 

 気が付くと、かなり人里に近付いていた。山頂から吹き下りる凍てつく寒さが、いつしか緩んでいる。

 大地を深く抉って作られた堀と、その深さの分だけ築き上げられた土壁が連なっていた。この堀と土塀が集落をぐるっと囲い込み、外敵の行く手を阻んでいる。遠目からでも見張り台に掲げられた橙色の篝火が網膜に焼き付く。

 狼は自らを責めた。微かに感じていた空腹が火に油を注ぐ。

 狼にとって、人間は嫌悪する相手だった。森を見境なく切り開き、山から鹿や猪、狐、兎といった動物達を狩り尽くしてしまうからだ。何より腹立たしいのは、人が巧みに扱う道具だ。長弓は遠くから獲物を正確に射ることができる。焚火は獣達の鼻を利かなくさせる。鈴の音は耳に響く。

 そして、憎らしいことに、人は森のなかに罠を仕掛け回る。彼ら彼女らの知略は、狐に勝るとも劣らない。

 人間にとって、狼は標的が重複し、競合する相手だった。それ故、お互いのなかはどうしても悪くなる。もっとも、大昔から人と行動を共にする種族もいる。

 だが、自分は孤高なのだ。

 厳しい自然の摂理のなかで生きる、たった一人の戦士。その生き方に、狼は矜持すら覚えていた。

 狼はそっと引き返した。いたずらに、彼らに近付くと痛い目に遭う。狼の顔に走った古傷が微かに痛んだ。

 

 不自然に折れた草木が目立つようになる。その背丈から見て、恐らく人間の肩に引っかかったのだろう。人の通り道なのだ。

 自らが発する音に注意しながら、狼は脇の茂みへ潜り込む。自分の存在感を霧散させ、周囲に溶け込みながら、一歩一歩慎重に進んで行く。その間、周囲への警戒は怠らない。

 どれくらいの時間が流れただろうか。そのうち、開けた場所に出た。自分の身を隠す物がなくなり、一段と警戒心は増す。自らの息遣いどころか脈動すら敏感に感じてうるさいくらいだった。

 

 不意に、濃い血の匂いを感じる。

 狼である自分がこの匂いを間違えるはずがない。狼の嗅覚は敏感で、人が嗅ぐことができないような微細な香りすらしっかりと嗅ぎ分ける。

 狼はすんすんと鼻を鳴らすと、太い四肢に力を込める。爪が大地を抉り取り、深い爪痕を残す。

 近付いた分だけ、独特の香りが次第に強く、濃いものに変わる。

 

 やはり。狼は確信した。

 すぐ近くで狩りが行われている。ぴんと尖った耳を立てた。

 しかし、獣達の発する独特な荒い息は一向に聞こえてこない。また、襲われた側の悲鳴も断末魔も、それどころか抵抗する音すらない。

 音の主は次第に遠ざかっていく。

 不気味なまでの静けさが、そこには広がっていた。

 不思議と嫌な予感がした。胸の奥から発せられる耳障りなざわめきが喉元までこみ上げてくる。

 だが、この時狼は強い空腹を感じていた。ふつふつと食欲が湧き立つ。獲物に恵まれない時は、すでに何者かによって狩られた獲物の残骸を食べ、飢えを凌ぐ。選り好みしている場合ではない。

 素早く大地を蹴った。

 注意深く、足音を立てない様にして進む。

 周囲には血の刺激臭が立ち込めていて、次第に鼻が利かなくなっていく。その臭いはどことなく、錆びた鉄を想起させた。

 疑念はますます深まっていく。襲ったのに、食べないのか。

 周囲はすっかり静まり返っていた。そこに生き物の痕跡はどこにも感じ取れない。微かな物音すらも絶えた、奇妙な沈黙がそこに漂っている。

 無秩序に茂る草木の間から、狼は顔を出した。

 人間が仕掛けた巧妙な罠かもしれない。人は時として、罠を使って狼を駆除することがある。罠は狼にとって恐ろしい存在だ。多くの罠には匂いがなく、罠にかかった瞬間しか音を出さない。

 狼は二つの目を頻りに動かした。

 空腹が次第に胃の中で暴れ始め、徐々に理性が利かなくなる。これはマズい傾向だ。軽く息を吐き出す。そうやって少しでも自分を落ちつけようとする。

 そして、静かな一歩を踏み出す。

 

 そこに転がっていたのは、人の子どもだった。

 狼の目に飛び込んできたのは、土の上に扇状に広がった豊かな金髪。そして、周囲を染め上げる赤一色。

 その小さな体躯は、自らが出した夥しい量の赤黒い鮮血で染め上げられている。ほっそりした四肢は力なく地に放り出したまま、果てていた。血液が抜けて青白くなった肌には、深い傷跡が幾重にも渡って走っている。

 周囲には破れた布切れが散乱していた。恐らく、纏っていた衣服だろうが、ずたずたに引き裂かれた残骸からはもはや見る影もない。 

 身動ぎ一つしない細身を、狼はそっと鼻先で揺さ振ってみる。どうやら、動きに連動した罠の類はなさそうだ。

 狼は改めて死体の周囲を見回す。

 獣独特の爪痕も足跡も臭気もない。地面を抉る細長の足跡は浅い。地を四肢で移動する動物の類の足跡ではないのは明らかだ。

 頭に血が上ってきているのを、はっきりと感じていた。

 この空間に立ち込める濃い血の香りが、狼に強い飢えを意識させた。原始的な野生の理に従って、狼は先程失われた命にありつきたいと強く思った。

 しかし、遺体の下腹部から滴り落ちる乳白色の液体。それが放つ独特な臭気を前にすると、どうしてもそんな気分にはなれなかった。

 

 死体から目を逸らし、狼は踵を返そうとした。

 その時だった。自分に向けられた強烈な殺意を感じた。

 ギギギ。遠くから微かに音がする。

 普段ならば聞き逃してしまう程の酷く小さな音。だが、それは弦が張り詰める音に間違いなかった。

 狼は咄嗟に遺体から飛び退いたが、その決断は僅かに遅かった。

 びゅう、という空気を切り裂く恐ろしい音。それは、空を駆ける弓矢だ。その多くは、狼に当たらない。引きが甘いものや逆に力み過ぎた矢は、あらぬ方向へと飛んでいく。

 しかし、そのなかの一本が狼の体躯を正確に捉えていた。それは向けられた殺意と同じ軌道を辿っていた。

 思わず身体を捻っていた。それはもはや本能だった。

 鋭く尖った矢の切っ先は、易々と後足を引き裂く。二層に分かれた黒い毛がぱっと周囲に飛び散る。矢は標的に当たっても速度を緩めることなく、森の奥へと消えていった。

 狼は飛び上がると、転がるようにして傾斜を駆け下りる。それは瞬時の判断だった。

 兎の持つバネのような後足を持たない狼にとって、この下り坂は険しい。それに、身を隠してくれる茂みも木々もない。しかし、この傾斜は人間にとってもまた険しい道だ。長弓を片手に、背に矢筒を背負った彼らがなおも追いすがって来るとは考えにくい。

 狼の決断は正しかった。無数の弓矢が放たれたが、山肌に沿って吹き付ける冷たい風がさり気なく狼を助けてくれた。定められた狙いをほんの微かに、だが確実に狂わせている。

 とうとう矢の猛攻は止んだ。いつしか空気を割く矢の音は絶えていた。

 それでも、狼は速度を落とさず、山を走り続けた。後足を庇う様に、その分前足で踏ん張って飛び跳ねて距離を稼ぐ。胸の奥では心臓が何度も何度も跳ね上がり、身体中に血液を送り込んでいた。

 十分な距離を稼いで、狼はようやく早さを緩める。

 そして、つけられた一筋の赤黒い傷を狼は恐る恐る舐めようとして、すんでのところで思い留まった。

 傷口から僅かに刺々しい匂いを感じる。最初は自分の血の匂いで気付かなかったが、一度嗅いでしまうとその匂いを忘れることができない。

 毒矢だ。人間のなかには矢じりに毒を塗った矢を用いる狩人がいることを、狼は知っていた。

 傷自体は比較的浅い。が、塗られた毒が確実に狼の身体を蝕んでいることがわかる。狼は憤怒から身体を小刻みに震わす。

 次第に、足取りが覚束なくなっていった。

 

 

 花は嫌いだった。

 発する香りが鼻を惑わすからだ。そもそも鼻の利く狼にとって、この匂いはキツすぎる。まるで刺激臭だ。

 

 弱々しい足取りで、狼はどうにかここまでやって来た。その頃には、刃のように研ぎ澄まされていた意識がすっかり霧散している。朦朧として、緊張の糸はとうに切れたまま、再び繋がることはない。危険な兆候だった。

 鼻先はやたらひりひりするし、耳も遠い。彼方で甲高い音が不規則に聞こえるような気がする。恐らく幻聴だろうが、今の狼にはそれすら自信を持って断言できない。現実感が次第に薄まっていく。夢のなかでずっと彷徨い続けている様だった。

 狼の巨体は転ぶように、地面に崩れ落ちた。後ろ足が痙攣を起こして、不思議なリズムを刻んでいる。

 

 全てが、遠くに感じた。

 不意に、昔の出来事が脳裏に浮かび上がった。攻撃の直前に感じた、あの殺意。あれは初めてではなかった。

 まだ狼が今ほど大柄でなかった頃の記憶だ。狩りも下手で己の強さも正しく自覚できなかったあの日、遠い向こう側から、あの殺意を感じたことがあった。

 その時は、本当に運が良かった。

 先程のような咄嗟の判断なんてできなかったし、まして身体を自覚的に動かせなかった。何気なく顔を動かした時、頬を矢じりが抉り取った。その傷は、今も狼の顔に走っている。だから、おれは人間は嫌いなのだ。頬を走る醜い傷跡は、狼の人間不信を決定づけるには十分過ぎた。

 

 現実が急に狼に迫りくるような、そんな錯覚にとらわれた。

 

 ほのかに伝わってくる暖かな温もりと、小さな息遣いをすぐ傍に感じる。それはまるでそこにいるのが至極当然、と言わんばかりの堂々とした存在感を有していて、ともすれば狼の危機意識でさえ見逃して――というよりも甘受してしまいそうになる。

 その存在を察して、狼はすぐに身を翻そうとしたが上手くいかない。

 両足に力がまったく入らなかった。おそらく毒が回り切ってしまったのだろう。それでも、狼は諦めずに指先に力を込める。だが、足は弱々しく宙を蹴っただけだ。

 すぐ傍で、はっきりとした声が聞こえた。が、狼は驚いてしまって、肝心の言葉が聞き取れなかった。

 そもそも、何故だ。

 狼は目を白黒させる。状況が上手く飲み込めない。身体をどうにか捩って、無理矢理起き上がろうとする。

「動かないで下さい」

 小さな声だった。

 それは、少なくとも獣の発する鳴き声の類ではない。その言葉は、人間のものだった。

 裂けた口を開いて、狼は威嚇しようとする。が、弛緩した筋肉は一向に収縮しない。牽制するつもりで上げた唸り声は、自分でも笑ってしまう様な変な声になってしまう。

 周囲を窺うために、狼は頭を左右に振ろうとする。体毛がぴんと針金のように張り詰め、尖っていた。

 触るな。狼はそう言い放ったつもりだった。が、獣の言葉が少女に伝わるはずもない。

「あっ。……もう。じっとしていて下さい」

 その言葉に従うつもりは毛頭なかった。無駄とはわかっていても、狼は抵抗を止められなかったからだ。

「ちょっと、お願いですから、落ち着いて……静かにしていて下さい!」

 その声に、微かに苛立ちの色が混じり出す。だが、狼はその言葉すら気にも留めずに身体を動かそうとする。

 ついに、頭上から固い言葉が放たれた。

「もう! 動かないで!」

 ぎゅっ。頬をつねられる。

 その小さい手からは想像もできない強い痛みに、狼の尾がぴんと張った。

 決して大きな声ではない。だが、断固とした強い意志を含んだ言葉だった。その気迫は狼のそれすらも圧倒していた。その一言に気圧されたかのように、狼は動くのを止める。

「そうですよ。お願いだから、じっとしていて」

 その手付きは優しく、狼のことを慮っているのがわかった。が、その細い手は微かに震えている。

 怒気はどこかに消えていた。先程と同じ大人びた声に、狼の耳が自ずと少女の方へ向く。

 声の主はまだ若い――というよりも幼い。だが、そこに刺々しい甲高さといったものはなく、むしろずっとその声を聞いていたいと思わせるような、安らぎにも似た落ち着きがある。

 狼が口から低い唸り声を上げるよりも早く、後足に走った傷を少女はスカートの裾でそっと拭う。そして、ポケットから白いハンカチを取り出すと、それを狼の元へと近付ける。

 その優しい手付きに、一瞬触れられたことに狼は気付かなかった。傷口に触れられた痛みよりも、人間の少女の不可解な行動に驚きを隠せなかった。脳裏を「何故」という言葉が頻りに飛び交う。その答えを狼は必死に探し求めていたが、残念ながらその頭には浮かび上がらなかった。

 薄いハンカチ越しに伝わってくる、少女の手の温もりが何故か心に染みた。

 その歯痒くくすぐったい感情に、思わず声を上げそうになるのを狼は必死に堪える。何故、躊躇う必要があったのかはわからなかったが「吠えてはいけない」という心の奥からの囁きに、狼はその時素直に従っていた。

「……痛みますか?」

 痛くない訳がない。なのに、狼は首を左右に振ってその問いに答えた。強がったところで、なんの意味もないのに。自分自身では皆目見当もつかなかったが、否定しなくてはならないとその時は思った。

 少女は自分の髪を結っていた藍色のリボンを解く。そして、慎重な手付きでハンカチの上に巻き付けると、キツく縛った。止血、ということだろう。人間の対処法に果たしてどれだけの効果があるのか、狼にはよくわからない。

 

 円弧状の細い月明りに照らされて、少女の深緑の瞳が優しく輝く。まるで、瞳自身が光を発しているかのような目映い眼差しを感じて、狼の口から思わず吐息が零れる。

 少女はそっと身を寄せると、狼の太い首筋に触れた。細くて長い指が毛の間を滑り、肌をなぞる。随分と遠ざかっていた温かさを、この時狼はとても身近に感じていた。

「頬に、傷」

 古傷の上を少女の指がなぞる。狼は無理矢理首を振った。人間につけられた傷を、人間に触られるなんて。狼は心のなかで苛立った。しかし、心のなかで揺らいだ怒りの炎は、次の瞬間には儚く消えてしまう。最後に残ったのは、触れた手付きの優しさで妙にどぎまぎしてしまった。

 不意に、疑念が頭をもたげる。だから、狼は少女に問うた。

 おまえはおれが恐ろしくはないのか、と。

 少女は微かに首を傾げる仕草を見せた。

 背中まで伸ばした黄金色の髪がふわっと周囲を漂う。そして、端整な顔には微笑が浮かぶ。

「もしかしたらお腹が空いているかもしれないけれど、今日だけは襲わないでもらえると助かるのですが」

 そう答えると、少女はそっと目を瞑った。とはいえ、その言葉とは裏腹に、あまり恐怖を感じている風には見えない。狼は訝しむ意味を込めた視線を少女へ送る。

 少女は何事か呟いた。

 その声音はあまりに弱々しくて、狼の鋭敏な聴覚でも曖昧にしか聞き取れなかった。

 だが、狼は急に気恥ずかしくなる。

 少女の細い腕から逃れようとしたが、身体は言うことを聞かない。

 少女の顔を窺おうと思ったが、視線を合わせることに何故か恐怖を覚えた。

 

 それが、狼と少女の出会いだった。

 

 

 闇が次第に濃くなり、月の存在感が希薄になる。

 細い円弧状の繊月はいつしか、弦月に変わっていた。その姿は弓と、それに張った弦を彷彿とさせる。

 岩肌を穿つ小さな穴が狼のねぐらだった。獣一匹がやっと通れる程の小さな凸凹道を行かねば、そこには辿り着くことができない。それ故、たとえ数で圧倒されたとしても、その利を活かせなかった。穴倉まで達する道はこれだけなので、狼はここにだけ注意をすれば良い。

 乾いた草を乱暴に敷き詰めた床に転がって、狼は息を吐く。毒がまだ抜け切っていないからなのか、ここのところ閉じこもりがちだった。

 

 ハンカチを固定するリボンを口元でそっと押し除ける。人間には嗅ぎ分けることのできない匂いのなかに、微かな少女の香りが混じっていた。この香りを鼻で感じると、あの少女のことが心に浮かび上がる。

 狼の目元が思わず緩む。

 理屈ではわかっている。しかし、気は一向に休まる気配がない。それはまるで月の姿のように、次第にその輝きを広げていく。胸のなかで膨らみ始めた孤独感が、狼の心を次第に突き動かしていた。

 素早い身のこなしで巣穴を後にすると、岩の一本道を器用に駆け抜ける。道筋のない岩場だが、踏ん張る箇所は直感的にわかっていた。

 切り立った頂上に辿り着くと、狼は腹のなかの息を全てぶちまけた。

 遠吠えは千里を駆け巡る。その声はいくつもの山々にぶつかると、山びことなってまた戻って来た。

 しかし、狼の声に応じる者は誰ひとりとしていない。

 いつしか静寂が周囲を包み込んでいた。高い山々にまとわりつく雲は雷鳴一つなく、しんと黙り込んでいる。

 狼の姿が消えるのに、そう時間はかからなかった。

 

 剣山が雲を易々と貫き、半月に向かって伸びている。

 黒塗りの空は月光によって、大分薄まっていた。この世界が朝の時を迎えたのだ。

 吹き上げられる風に、岩の裂け目からひょろっと伸びた草が揺さ振られている。毒々しい小さな花びらの激しい自己主張は、どこか一人よがりなものに見えた。

 そこに人影は見当たらない。

 何も言わぬ草花と岩ばかりが目立つ山々。水分を多く含んだ薄雲。躍動感溢れる生命とは無縁の光景が延々と、地の果てまで続いている。

 その理を狼は打ち破った。リズムを刻むような足音が鈍く響き渡る。

 雲の裂け目から月光が降り注ぎ、まるで光の帯のように揺らいでいた。

 狼は湖まで足を伸ばす。起伏に富んだ地形は強い雨が頻繁に降り注ぐ。それ故、幸いなことに水場には事欠かない。

 狼は口元を濡らし、喉の渇きを潤す。

 

 ふと、何気なく対岸に目をやる。すると、二匹の狼達がそこに佇んでいた。体色は黒々としていて、まだ若い。雄にひっそり寄り添っている一回り小さな方は雌だ。

 二匹の狼達は、向こう岸に今し方やってきた狼の大きな体躯を見ると身構えた。狼の巨大な身体を前にして、全身の毛を逆立てている。

 対岸の二匹に向かって、狼は短く吠えた。重低音が湖面を揺らす。

 二匹の狼達は一喝に跳ね上がると、そそくさと背を向けるのも構わず去っていく。

 すぐに静けさがその場へと戻って来る。誰もいなくなったことを確認すると、狼はハンカチとリボンを湖面に浸す。

 それは、狼にとって非常にもどかしい作業だった。

 だが、下手に前足を使ってしまうと、万一爪に引っ掛かったら最後、易々と裂いてしまうだろう。それだけは、何があっても避けなければならない事態だ。

 手先があまり器用ではないので、絞る動作がどうしてもできない。仕方がないので、狼は首を大きく左右に振る。水飛沫が周囲に飛び散った。朧月の微かな明りに応じて、僅かな輝きを放つ。

 自分は一体、何をしているんだ。狼はなんだか急に馬鹿らしくなって、苦々しい唸り声を洩らす。

 

 その場を後にすると、大地を蹴って走り出した。そのうち、花の香りが強くなる。

 白い花弁が時より風に吹かれて、小さな花びらが黒塗りの空へと舞う。冬の雪を想起させる情景に妙な気分に陥って、狼は静かに目を瞑る。

 いつしか花畑へとやって来ていた。自分では強く意識しているつもりはない。が、少女にまた出会えることを狼は心のどこかで期待していた。

 しかし、残念なことに、そこに少女の姿はない。

 そう言えば、あの少女はここで何をしていたのだろうか。花の間を狼は颯爽とすり抜けていく。

 ふん、と狼は鼻を鳴らす。山の麓にある集落まで足を伸ばそうか。そう思ったが早いか、狼は花畑を驀進する。

 しかし、花畑を抜け何歩か進んだところで、唐突に立ち止まってしまう。

 麓の集落に近付けば近づくだけ、人と遭遇する恐れがぐっと高まる。わざわざ、自らを危険に晒してまですることなのか。そんなにも価値のある行いなのか。

 狼は自分自身に問うた。

 しかし、誰もその問いに答えてくれない。

 

 ハンカチとリボンに、歯型をつけないように。

 注意深く咥えながら、狼は山を降りていく。普段よりも尾を多く振っているような気がしたが、そのことは深く考えないことにする。

 

 はっとすると、狼は目を見開いた。

 二つの双眸が凄まじい殺意を放っているのを、狼は肌で敏感に感じ取る。狼も警戒心から、自然と身体を殺気立たせた。そして、無音で匂いを嗅ぎ取る。

 

 間違いない。

 

 後足に矢を当てた、あの狩人の男の匂いだ。その匂いから、その男が緊張と興奮のなかにあることを知る。

 狼は素早く身を低くした。ここで、また奴と戦うことになるかもしれない。

 だが、様子がおかしい。

 この前のように、他の狩人の匂いや気配はまったく感じられなかった。

 風のなかからさらに匂いを嗅ぎ取ろうとした時、むっと濃い臭気が運ばれてくる。

 血の香りだ。狼は顔を顰めた。

 狩人の男はちょうど、怪我を負ったのかもしれない。狼が茂みの隙間から様子を窺おうとした時、狩人の男はちょうど忍び足でその場を後にするところだった。男の横顔は深い皺を幾重にも作っていて、遠目から見ても険しいことが読み取れる。

「……所詮は代替物。やはり満足できん、か」

 しゅっと剣先が擦れて鞘に収まる音がした。

 その足音が充分遠ざかるのを確認して、狼は血の匂いの元へと駆け寄る。

 そこで、ひとりの子どもが事切れていた。

 仰向けの状態で、ちょうど茂みの影に隠れるような位置に打ち捨てられている。

 その惨状を目にした時、二つのことが狼の頭のなかを過ぎった。

 一つは、昨日花畑で出会った少女のこと。しかし、それはすぐに勘違いであることに気付く。

 ハンカチとリボンを託した少女と、ここで息絶えている子どもの共通点は、精々長い金髪くらいだ。ぱっと見た印象自体はとてもよく似通っているものの、あの少女ではないことは一目瞭然だった。死体を目の当たりにして、不謹慎だが狼の心が少しだけ安らぐのがわかる。

 もう一つは、既視感だった。

 初めて狩人達と出会ったあの時も、子どもの死体を狼は発見している。その時の光景と、今まさに目の前に広がる現実は酷似していた。あたかもこの前の情景を、今この場で再現したかのようだ。

 血の海のなかに浮かぶ、深い傷だらけの裸体。かろうじて四肢はついているものの、少し引っ張れば容易に身体から千切れてしまいそうだった。限界まで見開かれた瞳には、微かな輝きすらも見出せない。ただただ虚ろなだけ。

 剥き出しの下腹は白く穢されていた。死ぬ間際まで弄ばれ、その亡骸は死してなお辱められていた。

 それを見ていると、次第に狼の心がざわつく。狼の身体を支配する、原始的な感情が沸々を熱を帯びる。

 しかし、口に咥えたハンカチとリボンを汚したくなかった。

 子どもの亡骸をじっと見下ろしていたものの、狼はすぐにその場を後にした。

 

 帰り際、狼はまた花畑を通っていた。

 少女の姿がそこにないことは、すでに確認していた。なのに、ついつい通ってしまう。

 花の甘い芳香に、匂いが嗅ぎとれなくなる。

 しかし、そばだてられた耳は微かな笑い声さえ、はっきりと捉えていた。

 狼は物影を見つけ出すと、音もなく潜り込む。そして、じっとその様子を遠目から窺う。つい普段から行っている狩りの癖で姿勢を低くしてしまう。

 

 あの日の少女だ。

 リボンこそ結っていないものの、それ以外は初めて会った時とそう変わらない。その変わらない姿に何故かほっとした。

 月明かりの加減と、狼の視力の問題でその詳細は覚束ない。だが、時より上がる高い歓声はどことなく楽しそうだ。

 どうやら、少女は誰かと語り合っている。

 遠目から見える輪郭は、一見すると人の姿をしている。しかし、良く見ると、耳が獣のようにピンと張っている。注意深く目を凝らして見ると、腕も柔らかそうな毛に覆われている。獣人の娘なのだ。

 二つの人影が互いに近付く。二人は肩を寄せ合って、何かに見入っている。

 二人に気付かれない様に、狼はそっと息を吐き出した。

 そして、その場から立ち去る。

 複雑な気分だった。

 少女にまた会いたかった。だから、再び彼女を見ることができて、安堵している自分がいる。狼はそんな自分自身に驚いてしまう。

 少女が獣の子と共にいるのも、なんだか妙に嬉しい。獣と人の間にはそう簡単には埋められない溝が横たわっている。そんななかで、分け隔てなく接する少女の姿は、狼の目にはとても眩しく映った。

 しかし。

 その一方で、自分が彼女達のすぐ傍にいるのが、なんだか酷く場違いだと感じた。

 何故そんなことを思ったのか。それは、狼にはわからない。だが、とにかく、そこにいてはいけないような気がした。

 狼は息を切らして巣穴に潜り込むと、平らな岩の上にハンカチとリボンを置いた。

 ひとり、巣穴で息を落ちつけようとする。弾む息を沈める振りをして、本当は自分のざわめく心を落ち着けようとしていた。

 焦らずとも、また会えるはず。

 何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。

 

 黒塗りの夜を切り裂く、一筋の光。

 狼が山を下る時、箒に跨った娘が空を駆ける姿を見かけた。箒につけられた灯りが狼の瞳に焼きつく。その姿はまるで彗星の様だった。

 この世界は複雑怪奇だ。沈まぬ月と昇らぬ太陽。自ら光を発する花。術を使う獣達。だが、何よりも狼が不思議に思うのは、空を飛ぶ民の存在だ。一体、どんな道理で空を自在に飛び回っているのか、その詳細を狼は知らない。だが、縦横無尽に飛び回る彼ら彼女らの姿を、狼は地上から見上げていた。

 恐らく、彼ら彼女らなりの自負があり、喜びがあるのだろう。それは狼にとって、どこか共感を覚える光景だった。

 花畑は朝霧で酷く見通しが悪い。

 それに、普段よりも肌寒く感じる。二層に分かれ保温に優れた体毛がなければ、狼も堪えるような強い冷気だっただろう。

 

 白い花は立ちこめる霧に濡れながら、静かに揺れている。

 狼は窺う様に首を右往左往させる。花畑には誰もいなかった。まだ早い時間だからだろう。堪え切れず苦笑した。朝一番から、妙に張り切っている自分を滑稽にすら思った。

 狼は人が嫌いだ。

 なのに、自然と足は人里の方へと近付いていく。周囲の些細な変化をいちいち警戒する一方で、そのなかからあの少女の姿を必死に見出そうとしていた。

 そこで、自分が少女のハンカチとリボンを持っていないことに気が付いた。

 すっかり失念していた。狼は自分の失態を悔やんだ。絶好の口実が今、手元にはない。だからといって、諦めることも、すぐここで踵を返す決断も、狼にはできなかった。

 狼の歩みが次第に怪しくなる。右へ左へ。ふらふらと進路を変えた。傍目から見て、落ち着きがないのは一目瞭然だった。

 

 そんな狼の迷いを敏感な嗅覚が消し去り、気を引き締めさせた。

 遠い向こう側から風に乗って、人の香りが微かに漂ってくる。人にはわからない次元の匂いであっても、狼ならば明瞭に感じられた。

 

 狼は刃物のように鋭く尖った白い牙を剥く。

 そのなかには獣の匂いも混じっていた。太古から今日に至るまで人に仕えてきた種族だ。姿こそ狼よりも一回りも二回りも小柄だが、すばしっこく小回りが利く。獲物を執拗に追いかけ回すことで、人の狩りを支援するのだ。

 その匂いのなかに、かつて狼を傷付けた、独特の殺意を放つ狩人のものはなかった。

 人には聞き取れない音域の音が聞こえる。犬笛だ。狼は自身の存在を覚られる前に、その場を駆け出していた。

 風向きに神経を尖らせながら、狼は駆ける。

 先程から耳を澄ませているが、追手の姿はない。相手の罠にかかった訳でもない。それはそれで狼にとっては都合の良いことではあるものの、どうも釈然としない。

 何が納得できないのだろう。狼は自分に向き合おうとする。

 しかし、何故という言葉を問いかけ続ける自分がいるだけで、肝心のその質問に応じてくれる自分がいない。

 

 狼は物思いに耽りながら、また花畑を通る。

 強い風の流れを感じた。花の匂いが森の中へと流されて、抜けていく。

 狼は周囲を窺った。だが、そこに期待していた人影はない。

 そういえば、訊いていなかった。あの子は、一体なんという名前なのだろうか。

 不意に笑いが込み上げてきた。

 彼女の名前を知って、なんになる。まさか、おれがその名を呼ぶのか。

 狼は自嘲した。

 

 狩りは一瞬で終わった。

 近年稀に見る、背丈が高く立派な角を生やした鹿が獲物だった。が、狼の他の追随を許さない技量をもってすれば、狩りは容易い。

 返り血を浴びて、全身が赤黒く染まった。その後、なんだか妙に強い疲れを感じて、花畑を覗かずにまっすぐ巣穴に潜ってしまった。

 一日を酷く長く感じた。そう、少女と過ごしたあの一瞬が、ずっと遠い過去の出来事だったような錯覚を覚えた。だが、遠い日のことのように思っても、その仔細は一向に劣化することはない。記憶のなかの輝きは衰えを見せず、むしろ今の方がずっと強い光を発している。

 

 もし、あの少女と出会ったら。

 

 そんなことを思うと居ても立っても居られず、普段水飲みで立ち寄る湖畔で水浴びまでしてしまった。

 黒く豊かな毛を湖の冷たい水に浸す。そして、身体を振るう。周囲に水飛沫が立ち込める。小さな水の粒の一つ一つに、狼の精悍な顔が映し出された。

 

 何故、おれは狼なのだろう。

 自分の出生について、今まで考えたことすらなかった。そこに理由はないように思う。狼の子は狼なのだ。それは自明の理のはずだ。

 湖面に映し出された、一匹の狼を睨みつける。狼の範疇を超えた巨大な体躯。その相貌はどんな狼よりも勇ましく、そして恐ろしい。頬に走った稲妻のような傷跡は醜さすら感じさせる。他の動物どころか、同族の狼にさえ恐れられているおどろおどろしい外見に、狼の心は大いに掻き乱された。

 そうだ、誰もおれを受け入れてはくれなかった。

 二つの鋭い双眸に、激しい苛立ちを覚える。心のなかで青い炎が高く燃え上がり、稲光にも似た強烈な火花を己の闇に散らす。

 前足を高らかに掲げると、水面を強く叩く。丸い波紋が幾重にも重なって、波打つ。そこに、もはや自分の姿はない。ただ、黒い影が蜃気楼のように揺らいでいるだけだ。

 狼はなんだか急に腹立たしくなって、その場で天を仰ぐと大きな咆哮を上げる。

 そして、狼は自らの目を光らせた。

 二つの光がじわじわと自身の体躯に伝播していく。

 この世界に住む住人は、人であれ獣であれ、程度の差こそあるが魔術が使える。もっとも、いざ魔術を実戦に取り入れようと思ったら、強靭な精神力と豊富な経験が必要不可欠だ。その点、狼は狩りだけでなく魔術の扱いにも長けていたが、そもそも狩りに秀でた狼にとっては無用の長物だった。

 慣れない二足歩行や弓矢を使うよりも、四足で大地を蹴り牙を剥いた方が手っ取り早い。

 紫の光が狼の四肢を包み込む。その様子は遠目から見ると、まるで赤紫色の炎をその巨体から発し燃えているようにも見える。毛深かった四肢は、その根本から姿を変えていく。前足で地を叩き、後ろ足だけで自立する。二層に分かれた黒い体毛が身体の内側へ引っ込む。

 今、水面に映っているのは、黒衣を纏った男の姿だった。長躯で精悍な顔つきは、狼の姿をどことなく連想させる。頬を走る稲妻のような古傷もあった。

 狼は湖面を見下ろす。しかし、水底からぼんやり浮かび上がった人影を見ていると、怒りにも似た激情が燃え上がった。狼は拳を振り上げると、湖面へと振り下ろす。

 所詮はまやかしの姿。

 これは断じて、おれではない。

 

 

 森に変わったところはない。

 狼は鼻を嗅ぎながら、獣道を避けて進んで行く。獣道は一見すると走りやすく、ともすればこの楽な道を選びたくなる。湖で一瞬とはいえ魔術を使ってしまったせいで、思考に靄がかかったような疲労が滲むなか、この誘惑からは逃れ難い。

 しかし、知略に長けた狩人達はそこに罠を仕掛け、あるいは待ち伏せを行う。かくして、狼は道なき道をあえて選び進んでいた。用心とはすなわち、こういった地道な努力を指す表現だ。

 ハンカチを咥えながらの道中は、思いの他呆気なかった。もちろん、何もないに越したことはない。

 目と鼻の先に人里、という場所まで来た時、狼は異変に気が付いた。

 里の多くの場所で焚火が行われていた。焼けた木々の匂いが至るところで立ち上がる。まるで、天に向かって何本も白い柱が立っているように見えた。それだけではない。猟犬の遠吠えも聞こえてくる。その鳴き声には聞き覚えがあった。いつしか遭遇を避けた、あの猟犬達だろう。狼に程近い場所からもいくつか声が上がっている。

 狼は唸り声を飲み下した。

 これはマズいことになった。狼は全身の毛を逆立てた。

 すると、茂みの向こう側から狩人達の集団が現れた。それぞれ長弓を持ち、周囲を警戒しながら、何やら話し合いをしている。表面上は和やかに見えるが、皆警戒心を柔和な表情で隠している。そのなかには、多くの猟犬を従えている若い女がいた。まだ若いが、その表情は凛々しく、厳しい。

 そして、何よりも気になるのは、かつて狼に傷を負わせた、あの狩人の男の姿だ。どうやら、この男が狩人達を束ね、指揮しているらしい。なるほど、その人選は自明のことのように思える。

 狼は息を殺す。そして、陰から状況の推移を見守った。幸いなことに、彼らは狼の存在に気付いていない。

 だが、これでは少女にハンカチとリボンを返せない。

 焦りの炎を消そうとしたが、それは狼の心のなかで燃え上がり、なかなか消えなかった。

 

 結局、その日は元来た道を引き返すしかなかった。

 徐々に弦を引く様に、月が丸みを帯びていく。

 月が沈まぬので、いつから朝と表現すればいいのか、狼にはわからない。だが、森の生き物達が一斉に目覚め出す時というのは確かに存在した。狼もそっと身を起こす。住処は薄暗い。

 細心の注意を払いながら、ハンカチとリボンを口元に咥える。

 

 いつしか、花畑に通うのが日課になっていた。

 最初は鼻を惑わす香りが好きになれなかったが、今では不思議と嫌いじゃない。この匂いのどこかに、少女の存在を感じ取ることができるからか。

 因果なものだ。嫌いな人間に介抱されて、しかも温かみを知るとは。

 月を隠すように伸びる木々の間を走り抜けると、開けた場所に出る。

 水場の水面には風の跡がいくつも刻まれていた。その湖面に、狼の黒い影も映り込む。

 湖に沿ってしばらく走り続けていると、白い花が一面に咲き乱れる場所に出た。花が発する独特の香りが周囲に立ち込めている。狼は軽く咳き込んだ。

 まだ早い時間なので、誰もいない。

 森は不気味な静けさに包まれている。目覚め始めた生き物達の姿が、そこにはない。

 皆、警戒しているのだ。森のなかで息を潜める侵入者達に。

 狼は自分の気配を押し殺して、慎重に進む。上辺だけは、普段と変わらない森の姿がある。

 しかし、周囲を改めて見回してみると、普段は喧しく囀っている鳥の姿がない。リスや野鼠の小さな息遣いも感じられない。兎や狐の姿が見られないのは、きっと木々の間を飛び交う殺気を敏感に肌で感じているからだ。

 やはり、諦めた方がいいのか。狼は自問した。

 

 だが。

 狼は咥えたハンカチとリボンに焦点を当てる。花畑で出会った少女との記憶が脳裏に蘇った。息苦しい森のなかにいるというのに、その時だけは穏やかな心地になる。

 狼は頭上を窺う。天を覆う深い緑の木々は、風の動きに合わせて静かに揺れていた。

 ハンカチ越しに伝わってくる微かな温もりを、傷を負った足に感じる。

 狼は低い声を上げると、力強い一歩を踏み出していた。

 そうだ、それでいい。

 まるで自分自身を鼓舞するかのように、狼は心の中で言う。

 あの少女に、もう一度。そして、このハンカチとリボンを返すのだ。

 そう心に決めると、その後の行動はすぐに定まる。後はこの森を抜け、里に近付くだけだ。

 なるべく痕跡を残さぬようにして進む。足元に神経を尖らせ、音を消して薄暗い闇に溶け込む。

 だが、口に咥えた藍色のリボンはともかく、白いハンカチはさすがに目立ち過ぎだ。自分の血で少し汚れてしまっているとはいえ、このハンカチの白さは遠目にも捉えられる格好の目印だ。

 狼がやきもきしていると、茂みの向こうで声が上がった。狼は素早く茂みのなかへ飛び込むと身を縮ませ、気配を消す。

「お嬢様、お待ち下さい!」

 若い男の声。その声の主はどうやら驚きを隠せないようで、声が奇妙に裏返っている。

「……はい?」

 短い返答だったが、狼の耳を震わすには十分過ぎるものだった。追い求めていた、あの少女の声だ。

「これより先は、立ち入ってはならぬとの厳命が下されております」

 若い男は似合わぬ咳払いをしてから、真面目腐った口調でそう言った。

 狼は息を殺して、その動向を茂みの奥から見つめる。

 若い男は大仰な手振りも交えながら制するものの、少女はまったくと言っていい程動じない。その様子は少女の方がよっぽど大人びているし、若い男の方が子どもじみている。

「そうですか、なるほど。……ですが、それはお父様のご指示でしょう?」

 少女の言葉に、若い男は間抜け面を晒していたが我に返るとうんうんと頷いてみせる。

「でしたら、それは領地に住む方々へ向けてのご命令でしょう?」

 年相応の笑みとは裏腹に、有無を言わさぬ態度。言うが早いかまるで「それが答えだ」と言わんばかりに、押し切ろうとする。

 若い男をはじめとする狩人達は一瞬ぽかんとした。が、我に返ると必死に少女を引き止めようとする。

 進む、進ませないの押し問答が繰り広げられた。とうとう痺れを切らした少女は落ち着いた面持ちで、しかし毅然とした態度で言い放つ。

「もしも、わたしの行動に何か問題があると仰るのであれば、お父様からそのお言葉を頂いて下さい。そうすれば、わたしもその命に従います」

 ぴしゃりと断言されて、若い男や狩人達は呆然と立ち尽くす。

 少女はその隙を突くと、あっさり振り切ってしまう。その歩みから、どうやら少女はあの花畑へと向かおうとしているようだ。

 その動きに合わせ、狼もその後を追おうとした、その時だった。

「お待ち下さい、お嬢様」

 低い声はそんなに大きくはなかったが、よく通った。周りの者全てが、自然と視線を発言者へと向ける。

 その声には、狼にも聞き覚えがあった。頬を抉る一撃ばかりか、二度までも狼に怪我を負わせた、独特の殺気を放つあの狩人の男だ。

 森の暗がりから姿を表した男は堂々とした足取りでやってくる。まるで、今し方、どんなに強い光さえも黒く塗り潰してしまうような、そんな深い暗闇から人間の姿に変化した様だった。この男ほど影が似合う人間はいないだろう。

 少女が今まさに進もうとした道を遮る形で、男は立ち塞がる。そして、獣にも似た厳しい瞳で、少女の姿を見下ろす。

 

「ここから先は人喰い狼が出ます故、何人たりとも通すな。そうお父上から直々に言われております。どうか、ご理解を」

 

丁寧な言葉遣いだが、どこか慇懃無礼な感が否めない。

 この男も身分が高いのかもしれない。そう思って男の姿を改めて見てみると、身なりは他の狩人達よりも豪奢のような気がする。

 だが、それよりも驚かされたのは、男の言葉だった。

 

 人喰い狼。

 

 背筋が凍った。それは、一体誰のことなのだろうか。まるで、自分に向けられた言葉みたいで、狼は喉を鳴らして唾を飲み下した。

 少女もその言葉に、一瞬困惑の色を滲ませる。しかし、すぐに少女ははっきりとした口調で答えた。

「……それは嘘です」

「嘘?」男は微かに笑ったような気がした。

「ええ、嘘です。狼は警戒心の強い生き物です。無闇に人を襲ったりしません」

 男は黙って少女を見下ろしている。少女もまたその視線に屈することなく、男の姿を見つめ返す。

「それに、この山の狼さんは皆さんが仰る様な、酷いことはしません。現に……」

「妙なことを仰る。すでにこの森では何人もの娘が狼の手にかかり、命を落としております」

「ですから」

「それに、もしもお嬢様の身に何かあれば、このなかの誰かの首を刎ねなければなりません。それがお嬢様の本意であるならば、止めませんが」

 言葉を続けようとする少女を男は無理矢理遮ると、部下の顔を見渡す。その仕草は酷くわざとらしい。

「そんなっ!?」

 さすがの少女も思わず声を荒げた。

 ちょうどその声に応じるように、茂みの向こうから猟犬を率いていた若い女が現れる。この騒ぎに彼女は長くて細い眉を寄せものの、集まった人のなかから少女の顔を見つけると表情を和らげた。

「あら、お嬢様ではありませんか。何をしているんです、こんなところで? 早く戻らなくちゃ。お姉様がお待ちですよ」

「お願いです! ここを通して下さい」

 少女の物怖じしない言葉に、若い女は一瞬唇を引き締める。が、やんわりと首を振った。

「きみがお嬢様を送れ」

 狩人達を率いる男の言葉に女は頷くと、少女の背中を優しく押す。少女は若い女へ振り返ると、抗議の声を上げた。

「待って下さい! わたしは……」

「さっ、お嬢様、お早く。この子達もお嬢様と遊ぶのが待ち切れないみたい」

 猟犬達は主人である女の意向を汲み取ると、巧みに少女の道を塞いで集落へと誘う。

 そして、少女の小さな姿は次第に森の奥へと消えていってしまった。

 残された狩人達に向かって、男は表情を変えずに言う。

「……ということだ」

 その瞳は獣のように鋭く、殺気を漲らせていた。

「人を喰う狼、おれ達の手で狩るぞ」

 

 

 狼は目を瞑った。

 この警戒網の向こうに、少女がいる。

 何を迷う必要がある。何を躊躇う必要がある。

 狼は心を決めた。

 息を整えると、狼は茂みからその身を躍らせる。高い跳躍に、武器を手にした狩人達が俄かに色めき立つ。

 すぐに長弓を構え、矢が放たれた。が、咄嗟の狙いは甘いものばかりで、狼の脇を通り抜けていく。

 脇目も振らず、狼は駆け出す。

 唯一の懸念は、少女と共にいる猟犬を率いた若い女。すばしっこく、数に勝る猟犬を押さえつつ、女の弓を避け、少女の元へ。そう表現するのは容易いが、いざ実行に移すと難題だ。

「……捕まえたぞ」

 強い視線をその背に感じる。

 狩人の男の狙いは正確無比だった。その鋭い一撃は、少しも狂うことなく狼の頬の肉を削り取っていく。

 男はすぐに次の弓を手に取ると、狙いをつける。その一連の動作に、無駄は一切見られない。狩人の標的でなければ、その滑らかな動きに狼でさえ惚れ惚れしただろう。

 狼は思った。もし、自分が命を落とすとしたら、この男に奪われるだろう、と。

 次の一射は、かつて少女が癒してくれた箇所を無情にも掠め取る。一拍遅れて火に触れた様な、焼け付くような痛みがじわじわと広がっていく。傷口からは赤い鮮血が迸り、地にいくつもの痕跡を残した。

 間違いない。この男の狙いに、狂いはない。

 狼はろくな反撃も出来ずに、男に背を向けて走ることしかできなかった。

 酷く苛立っていた。この警戒網を突破するのは容易ではない。

 狼は思った。これでは、いくら命があっても足りない。

 思考を必死に巡らせる。手段がない訳ではないのだ。ただ、あまり気が進まない。とはいえ、こればかりは背に腹はかえられなかった。狼はどうしても少女に会わなければならないのだから。

 狩人達は「狼」の姿をした自分を警戒している。それ故、この森には多くの狩人達が潜んでいて、弓を構えていた。ならば、彼らのなかに紛れ込んでしまえばいい。人の姿に化ければ、この警戒網を正面切って突破する必要はなくなる。彼らの目的は「狼」なのだから。

 狼は双眸を光らせた。

 赤みがかった紫の光が暗がりに浮かび上がる。それは闇夜のなかでそっと揺れる鬼火のような、独特の禍々しさを感じさせた。狼の身体を覆う黒々とした体毛が、徐々に引っ込んでいくようにして消えていく。前足で大地を蹴り上げる。後ろの足に渾身の力を込めて、地に立つ。裂けた口が、月光に光る牙が、ぴんと伸びた耳が、太い尾が徐々に小さくなる。

 

 魔術によって、狼は人の姿になっていた。これならば、人間に気付かれまい。

 そこに、少女に怖がられないように、という思慮が僅かながらに含まれていることを、狼は自覚していなかった。

 狼は二つの足で走り出す。

 が、すぐに四肢で走破したい衝動に駆られる。足を伝う生温く粘り気のある血が気持ち悪い。

 そのうち、最初は小さかった苛立ちが徐々に膨らむようになる。こんなに走っているのに、何故追いつけない。これだから二本足は嫌いなんだ。それとも、道を間違えたか。だが、こっちの方向で合っているはずだ。

 狼がちょうど、そう思った瞬間だった。追い求めていた姿が、狼の目に飛び込んでくる。

 

 四人の狩人達に囲まれた、少女の姿をとうとう見つけた。

 少女は、初めて花畑で会った時の様に、長い髪をリボンで結っている。その面持ちは不安で曇っていたが、記憶のままの少女の姿に、狼の心は慰められた。しかも、護衛のなかにはあの若い女も猟犬の姿もない。これは嬉しい誤算だ。

 狼がそちらに歩み寄ろうとすると、肩に枝が引っかかった。普段の狼ならば触れることはない背丈だったから、気付くのが遅れてしまった。がさがさと葉が騒ぎ出し、四人の狩人達が音源へ向かって弓を構える。

「そこにいるのは誰だ!?」

 自然と狼の肩にも力が入った。

 しかし、声を投げかけた男は、狼の「人の姿」を見ると、緊張の色を消す。狼かと思ったぜ、という言葉がどこからか上がり、安堵が彼らのなかで広がっていく。

「おまえ、怪我してるのか?」

「ああ、それよりも……」

 そう言って、狼は真剣な表情を浮かべた。

「狼を狩るには人手がいる。だが、おれは集落へ応援を呼ばなくてはならない。そこで、お前達も向かえ」

 口から出任せだったが、澱みなく言うことができた。どうにかして、少女からこの護衛を引き剥がさなくてはならない。

 

 だが、その一方で勝算もあった。森中に漂う焚火は狼の鼻だけでなく、猟犬の鼻も潰してしまう。これならば、狼の術を見破られることもない。

 狩人達に気付かれないように、狼は静かに息を吐き出す。そうやって、幾分か昂った心を落ち着けようとする。

「しかし、我が隊はお嬢様の護衛を任されている。その任を放棄する訳には……」

 護衛の狩人達は渋い顔だ。その言葉の端々には露骨な躊躇いすら感じさせる。

 狼は必死に考えた。どうすれば、この男達を追い払うことができるのか。

「緊急事態なんだ」

 狼はどすの利いた声を上げた。

 だが、必死になって訴えかけるも、男達の浮かべる渋面は相変わらずだった。

「で、では、二手に分かれよう。応援の二人と、貴公とお嬢様を村まで送る二人に」

 小隊長格の男が言う。

 それでは駄目だ。狼は歯を食いしばった。もしかしたら、歯軋りの音が聞こえたかもしれない。

「……隊長のご命令だ」思わず怒鳴っていた。

「だが、怪我をした貴公だけでお嬢様を村まで送り届けるのは……」

「隊長の命令だと言ったんだ! ごちゃごちゃ言わずに、さっさと行け!」

 言葉を途中で遮ると、狼は瞳を滾らせた。巨大な狼の姿を彷彿とさせる凄味と威圧感がじりじりと発せられる。狼は鬼気迫る表情を強面に浮かべながら、怒鳴り声で言った。

「長弓を貸せ! 少女の守りはおれに任せろ!」

 狼は言うが早いか、狩人の一人から強引に弓と矢筒を奪う。

「しかし……」

「おれが『行け』ってんだから、さっさと行けよ!」

 そして、四人の狩人達の顔を一人一人伺う。伺う、というよりも睨みつけて回る、という表現の方が正しかっただろう。狼の迫力に、護衛達が気圧されたように身体を引いた。

「そこまで言うなら」小隊長格の男が呟く。

「いいのですか? 我が隊の任務は……」

「どうやら事態は一時を争うようだからな」

 そう言うと、男は狼に顔を近付ける。そして、狼にだけ聞えるようにそっと耳打ちした。

「お嬢様に何かあれば、貴公の首が飛ぶことを忘れるなよ?」

 小隊長格の男は部下を率いて、森の奥へと消えていった。

 狼は改めて、黙って成り行きを見守っていた少女へと向き直る。会っていない間は、精々数日間だったというのに、随分と長く感じた。

 

 やっと会えた。

 

 感慨深くて、思考が停止する。何か言うべき言葉があったはずだ。だが、この時狼は何も言えなかった。

 狼は黙ってハンカチとリボンを懐から取り出す。

「……久しぶりだな」

 ややあって、ようやく一言呟くと、狼はハンカチを突き出す。

 少女は首を傾げた。差し出されたハンカチに疑いの眼差しを向けている。

「見ない顔ね」

「呼ばれて来たからな」

 狼はぶっきら棒な口調で応じる。今は言いたいことを言うので精一杯だった。

「それ、あたしに?」

 狼はその言葉に、自然と眉を寄せてしまう。

「そうだが。……どうした?」

「別に、なんでもないわ。ありがとう」

 そう言いながらも、どこか少女の様子がおかしい。少なくとも、その言葉通りに「なんでもない」訳ではなさそうだ。

 初めて会った時に感じた気高さは、今も一向に衰えていない。だが、その姿に、かつて狼が感じ取っていた慈悲深い優しさや安堵させるような温かみはない。どこか、刺々しい。それは警戒心というよりも、もっと強く激しいものだ。敵愾心にも似た強い疑念を隠さない少女の姿に、ついつい狼は訝しんでしまう。

「……忘れたか、おれのことを?」

 そんな言葉を狼は思わず吐いてしまう。狼は平生を装っていたが、その文言には微かに苛立ちが混じっているのが自分でもわかった。

 少女は露骨に眉を顰める。その何気ない仕草が狼の心を、表面を削り取る様にして傷付けていた。

「失礼を承知で訊くけれど。あなた、あたしとどこかで会ったかしら?」

 思いがけない返答に、狼は押し黙る。戸惑いをどうにか心の奥底で抑え込みながら、吐き出す様にして捲し立てていた。

「森を抜けた先、白い花が咲き誇る花畑で。傷付いたおれを介抱してくれたのは……おまえだ」

「なんのことを言っているのか、あたしにはさっぱりだわ」

 少女が緩く首を振るう。その動きに合わせて、硬質な金色の髪が周囲に漂った。

 何故、こうも少女は狼に対して余所余所しいのか、わからない。が、狼はすぐにその理由に辿り着く。人の目を欺くために、姿を変えているからわからないのだ。

「おれは……あの時の、狼だ」

「狼? まったく。嘘はやめて」

 少女は鼻で笑う。

「嘘じゃない」

「あんまりあたしを愚弄すると、怒るわよ?」

 狼はそう言うも、少女は口元を歪めている。

 なんと言えば、信じてもらえるだろうか。どうすれば、警戒心を解いてもらえるのだろうか。

 狼はしばしの間黙り込んで思案するものの、脳裏に妙案は欠片すら浮かばない。

 やはり、狼の姿を見せるしか信じてもらう術はない。

 狼の瞳が紫色に輝いた。

 術が徐々に解けていく。鍛え上げられた巨体を纏っていた黒衣が体毛に変わる。四肢で大地をとらえる。口が裂け、牙や耳が鋭く伸びていく。

 この姿を見れば、あの時の少女に戻ってくれると思った。

 

 しかし、少女の顔から笑みが引く。

 

 狼はその意味がよくわからなかった。何故、そんな顔をするのか、まったくもって訳がわからない。

 突如として少女の甲高い悲鳴が上がり、森のなかへと木霊していく。

 思わず、ハンカチを落としてしまう。狼は激しく狼狽する。胸が酷く痛い。あまりの息苦しさに、吐き気すら覚えた。胃が口から飛び出してしまいそうな、そんな嫌な感じがする。

 一体、なんの冗談なんだ。

 ……何故、おれを拒む?

「嫌っ!」

 狼の目の前を、少女の掌が薙ぐ。

「来ないでっ!」

 金切り声を上げると、少女は後ずさった。狼がいくら歩みを進めても、その分だけ少女の身体は遠ざかってしまう。

「近寄らないで、って言ってるの!」

 大きな緑色の瞳には、薄らと涙を溜めている。

 その言葉に柔らかさは一切なく、直視するには痛すぎる程の強烈な怒気すら混じっていた。

 おれは、ただハンカチを返したいだけで……。

「ハンカチだなんて、あたし知らないわ!?」

 その一言は、狼の心を激しく打ち叩いた。動揺は、いくつもの大きな波となって心に殺到する。

 何度も何度も、無意味な瞬きを繰り返していた。

「早く失せなさい! この人喰い狼っ!」

 気付けば、話すら噛み合っていない。

 その動揺のせいで、狼は差し迫った危機に直前まで気付かなかったし、気付いた時にはもう手遅れだった。

 びゅっと空気を切り裂く音がした。

 鋭い痛みが背中を走る。衝撃が左から右へと突き抜けていく。狼はいつの間にか、腹の奥底からけたたましい悲鳴を上げていた。至近距離からの一撃は鉄板すら貫通してしまう。まして、防具とは無縁の狼にとって、その一撃は致命的だった。

「人喰い狼だ!!お嬢様をお守りしろ!」

 狩人の男の大きな声。彼に率いられた長弓隊が周囲から飛び出すと、ぐるっと狼を取り囲もうと動く。

 不思議でならなかった。何故、狩人の男が人に化けた自分の正体に気が付いたのか。それに、どうして自分の居場所がわかったのか。

 狼の術を見破る唯一の手段は、狼の発する消せない獣の匂い。だが、焚火がそれを掻き消している。

「ふん、馬鹿め。姿形をどんなに偽ろうとも、地面に落ちた獣の血は誤魔化せん」

 狩人の男の口元に浮かんだ歪んだ笑みを見て、狼は自分の愚かさを悔やんだ。

 

 少女に拒絶されたというのに、藍色のリボンまでは放さなかった。

 しかし、ハンカチを落としてしまった。それが悔やまれる。手酷く拒まれたというのに、何故かハンカチのことが狼の頭のなかを占めていた。

 茂みに向かって無数の弓矢が飛んでくる。狙い澄まされた一撃も怖いが、数を揃えた弾幕もまた脅威だった。

 背中に突き刺さった矢が狼の力を徐々に奪っていく。身体を折り、その弾みで両脚を繰り出す行為から、少しずつ力強さが失われていった。

 狼は立ち止まる。背後から、人の気配が消えていた。上手く撒くことができたのだろうか。

 狼は弱々しく地に崩れ落ちた。狩人の男の一撃が、確実に身体へと響いている。

 もう、駄目かもしれない。そんな悪い予感が頭をもたげた。

 少女の笑み、ハンカチとリボン。自分の死がひしひしと近付いているのに。未練がましい自分に、激しく憤る。自らに苛立ちすら覚えていた。

 

 少女の厳しい言葉が脳裏にぼんやりと浮かび上がる。そうだ。おれは裏切られるのが嫌で、ずっと一人だったんだ。

 

 狼は自分を笑った。

 きっと、おれはあの子のことを信じていた。信じてみたいと願っていた。なのに、裏切られた。裏切られて、傷付けられて、そして、それ以上に……悲しかった。こんな思いを二度としないために、おれはひとり、孤独に甘んじていたんだ。

 

 なのに。それなのに。

 

 結局、憐れな狼の一人芝居だった。

 

 気が付くと、涙で視界が淡く滲んでいた。だが、狼が心のなかでどんなに言葉を重ねようとも、少女の柔和な笑みが、首を撫でた時の感触が、伝わってきた温もりが、狼の頭から消えない。あんなに苦しい思いをしたというのに。それでも、諦め切れなかった。

 もしかしたら、ここで死ぬかもしれないのに。狼は大きく咳き込む。血の塊を土の上に吐き出していた。狩人の攻撃が狼の想像していた以上に、身体にダメージを与えている証拠だ。

 

 左右から微かな足音を感じた。どうやら、狩人達は二手に分かれて挟撃する作戦らしい。

 四肢に力を込めた。もはや、気力だけが狼の身体を支えていたと言っても過言ではない。

 狼は目を見開いた。その瞳は炯々と輝いていた。まるで、今宵の月のような、強烈な光を宿していた。

 横目で様子を伺う。狼の視界の端で、狩人の男は空いた手に少女のハンカチを握り締めて立っている。その姿はとても大きく見えた。闇夜が人の姿となり、自らの前に脅威として立ち塞がっている様だった。

 力が身体の奥底から沸々と湧き上がってくるのがわかる。

 あのハンカチは、おれの物だ。……おまえなんかが触っていいものじゃない!

 それは、純粋な野生の叫びだったはずなのに、いつしか怒りや悲しみといった感情的な側面は削げ落ちていた。

 内から上がる衝動に、狼は身を委ねる。男の殺気と、狼の殺意が正面からぶつかり合う。

 狩人の男は流れる様な手付きで弓を手に取り、弦を引く。保持する腕、そして狙いを定める瞳は狼の身体をしっかり捉えている。弦が獲物に向かって、歯軋りのような音を上げていた。

 狼は両手で地を叩いて、飛び上がった。黒い身体が宙を舞う。丸い月に狼の影が、ほんの一瞬だけ浮かび上がった。

 他の狩人達が放った多くの矢は空虚に殺到する。それは先程まで狼のいた場所だった。

 今は、そこに影一つない。

 狼は牙を剥いた。

 だが、男はその動きを先読みして、身体全体で狼の動きを追っていた。

 弦が元に戻ろうとする。そして、鋭い矢の切っ先が飛来した。

 狼の身体に吸い寄せられるようにして迫ると、肩の骨をいとも簡単に砕く。それでも勢いは失われず、矢じりは身体の奥底まで潜り込もうとする。

 狼の口から嗚咽が零れた。痛々しい声と共に、口から鮮血が漏れる。

 そこで、勝敗は決した。

 狼は条件反射で身を引き、地面に思い切り叩きつけられ、抵抗もできずに息の根を止められる――はずだった。

 しかし、狼の身体はそれでも真っ直ぐに男の元へと突き進んで行く。

 男の目が、微かに見開かれる。

 その手が新たな矢を掴んだ時には、四二本の鋭い歯が男の首の皮をとらえていた。そして、そのなかでも特に鋭い四本の犬歯は男の喉元を貫くだけでは飽き足らず、骨にまで達してようやく止まる。

 男はその手から矢を落とす。

 やったのか。狼は心の中で呟く。

 そう思ったのも束の間、男は腰から下げていた短剣を素早く抜くと、狼の腹を斜めに引き裂いた。その刃からは微かに人の血の匂いが混じっている。

 狼はそれでも男から離れない。

 痛くない訳がない。だが、すでに多くの矢を打ち込まれていた狼にとって、痛覚はすでに鈍磨していた。瞬時に痛みを頭で認識できなかった。

 男の大きな背中に、鋭く尖った前足の爪を突き立てる。渾身の力を振り絞ると、狼は頭を大きく振った。

 くぐもった鈍い音がして、男の頸骨が折れた。

 男の鍛え上げられた身体は受け身すら取らずに、その場に崩れ落ちる。

 その命を失ってもなお、男の瞳からは炯々と鋭い光を放っている様に見えた。

 

 

 間髪入れずに、狼は男がその場に落としたハンカチを拾う。

 そして、傷付いた身体に鞭を打って、その場から駆け出していた。

 

 一体どれほどの距離を走っただろうか。

 狼に追い縋る追手は、いつしかなくなっていた。隊長格の男を失って、統率が執れなくなっているのかもしれない。が、狩人側の詳しい事情は狼にはわからない。

 誰もいない森のなかを、ただひたすら駆け抜ける。

 この瞬間にも身体から血が失われていくのが、認識できるような気がした。

 いつの間にか、不快な焚火の煙が消えていた。猟犬の鼻を使うためだ。撒き散らしてきた血の匂いで、狼の居場所もじきに分かるだろう。

 

 ……ここまでか。

 狼は短く息を吐いた。深く息を吐くと、そのまま肺が萎んだまま膨らまなくなるのではないかと恐怖した。

 

 ふと、拒絶した少女の姿が目に浮かぶ。

 今のおれを、あの子が受け入れてくれるだろうか。

 

 狼は弱々しく首を振った。

 彼を突き動かしていた感情のうねりが、次第に小さくなっていく。残ったのは、人に傷付けられた恨みと、少女に拒絶された深い悲しみだけだ。

 そんなもののために、おれは戦ったのか。命を懸けたのか。

 

 つくづく、憐れな獣だ。

 本当に。本当に、救い様がない。

 

 結局、おれでは駄目だったのだ。何故、それに思い至らなかったのだろう。気付いてしかるべきだったのに。

 最初からわかっていたことだ。人間なんかに関わるべきじゃなかった。なのに、なんで期待してしまったのだろう。

 

 つくづく、愚かな狼だ。

 

 

 気が付くと、狼は花畑まで辿り着いた。もしかしたら、猟犬の鼻を惑わせるかもしれない、という打算的な考えはなかった。

 

 もはや自分の身体すら支えることができなくなって、狼は物言わぬ花にその身を預けた。

 感覚が鈍り、現実感がどんどん遠ざかっていく。

 初めて少女と出会ったあの日が、遠い過去のように感じる。

 孤独だった。だが、孤独じゃなかった。そう、まるで黒塗りの世界で輝く月の様に、いつでも傍にいるような気がした。手を伸ばせば触れ合える程、近くにその存在を感じていた。

 

 何故だろう。おれは狼で、彼女は人間なのに。何故、こんなにも近く感じ合えたのだろう。

 思考に靄がかかり始める。意識が徐々に遠のいていく。

 狼は顔を上げた。

 塗り斑のない黒い夜のなか、月は膨らみ満月となって浮かんでいた。その輝きがどこか儚く見えるのは、おれの命が今まさに果てようとしているからなのか。

 

 月に向かって、叫ぼうと思った。なんでもいい。なんでも良かった。とにかく、狼はこの世界に対して、何かを訴えたかった。しかし、頭のなかが空っぽになって、なんと言えばいいのかわからない。

 

 遠くから猟犬の鳴き声が聞こえたような気がしたが、もう気にならなかった。奴らがここに来る頃には、もう……。

 今にも消えそうな声で狼は言う。

 

 あの温もりを。

 

 

 

 抉り取られた頬に一陣の風を感じた。

 

 そして、狼の目に映ったのは、自分の元へ駆け寄る小さな姿。その姿が徐々に、目一杯映し出される。

 

 狼が追い求めて止まない、少女の顔がそこにはあった。深い緑色の瞳には涙をこれでもかと溜めていて、揺さ振れば今にも零れ落ちそうだ。その深緑の瞳からは狼の胸もつられて切なくなってしまう様な、深い悲しい輝きを放っている。

 

 狼は弱々しく溜息をつく。もう、おれに関わらないでくれ。そう言おうとしたが、結局言葉にすることができなかった。

「そんな。どうして、こんな……」

 少女の弱々しい言葉は、尻すぼみになって消える。傷を負った狼を前にして、少女は途方にくれて咄嗟に言葉が出ないようだった。

 狼の頭を両手で包みこむと、血で汚れるのも構わず自分の胸に抱き寄せる。その手は細かったか、暖かさを強く感じた。

 その顔には、いくつもの感情が浮かび上がっていた。理不尽さややるせなさ、憤り、悲しみや憐れみ、それでもまた出会えたことへの喜び。それは一言ではとても言い表せない、複雑な表情だった。

「……辛い思いを、させてしまいましたね」

 狼は彼女の腕から逃れようともがいたが、空虚な抵抗になってしまう。もはや抗う力は狼の身体には残されていない。

 

 不思議な気分だ。あんなに会いたかったのに。傷付いた姿を、他ならぬ少女には晒したくはなかった。いや、そもそも会いたくなんてなかった。そのまま放っておいて欲しいくらいだ。狼は心のなかで必死に強がる。

 狼は少女に問うた。何故、と。何故、おれを拒んだ。

 だが、風に煽られる少女の髪を見て、狼はようやく真実に辿り着く。

 そこに、リボンはない。当たり前だ。彼女の藍色のリボンは、他ならぬ狼自身が今もなお咥えているのだから。

 そして、森で出会った少女は、リボンをしていた。少女に初めて会った時のように、リボンで髪を結っていた。

 そもそも、少女と共にいたはずの、猟犬を率いていたあの若い女が、四人の護衛達のなかにはいなかったではないか。

 少女と同じ姿をしているが、目の前の彼女ではない。

 傷だらけになった狼の額を、少女は優しく撫でる。

「わたしには、姉がいます。わたしよりも三秒前にこの世に生まれ落ちた、双子の姉が」

 そう言って、少女は頬を寄せた。皮膚の向こうから少女の柔らかな頬を感じる。その頬の熱さに、狼は驚く。感覚を失っていたはずの頬に電流が走り、その温もりに心が暖まる。

 狼の涙腺が思わず緩む。もう一度。そう願ったものに今、自分は包まれている。自分がどんなに願っても手に入らない。かつての自分がそう思い込んでいたものに抱かれて、狼は静かに涙していた。

 そうか、そうだったのか。狼は目を瞑る。自分が泣いているのを、少女に悟られたくなかった。

 少女の胸の奥で鳴る心臓の鼓動が、今は心地良い。

 血で自らが汚れるのも厭わず、少女は狼の頭を優しく撫でた。

 

 ハンカチを。

 狼は口を開いた。

 

 すまない、ボロボロになってしまった。上手くできなかったが、洗ったんだ。

 

「ハンカチ、返そうとしてくれたのですね」

 

 とうとう堪え切れず、少女は涙を零した。柔らかそうな頬を伝って、宙を走る。その軌跡は彗星のように儚く、そして美しい。

 

 少女はその手に、ハンカチをそっと受け取る。

 一向に止まる気配のない涙も顧みず、少女は笑みを浮かべた。その笑みを、狼はずっとずっと眺めていたいと思った。

 少女は狼をぎゅっと抱き締めた。そのほっそりとした腕に込められた力が、自然と強くなる。

 わかってくれたのか。

 狼の鼻先に、少女はそっと唇を寄せる。狼は思わず、少女の顔を見つめ返した。

 

 それに応えるように、少女は柔らかく笑ってみせる。

 

 

 黒塗りの空の上で丸い月は静かに輝き、放たれた月光はふたりを優しく包み込んだ。

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